証言記録

双葉町一時帰宅の同行レポート

1 同行までの経緯と一日の流れ

 2013年3月10日、福島県双葉郡双葉町出身のI君と彼の家族の双葉町への一時帰宅に同行した。I君とは卒業論文の作成に関して資料を提供してもらったことで縁が生まれ、今回の一時帰宅に同行させて頂くことになった。他の同行者は私とI君の共通の友人であるYと、福島県内の資料館の学芸員の方である。I君とYは同じ大学院の歴史学研究室に所属しており、学芸員の方は研究を通じて知り合ったようである。今回の一時帰宅は、I家の家屋からの物品の持ち出しと、彼の家で所有している蔵の内部調査、および周辺の神社、遺跡の被害調査を兼ねている。そこに私は主に調査の手伝いという形で参加することとなった。なおカメラを持ち込み、写真撮影も行った。

 

 一日の流れはおおよそ以下の通り。

 

11:00頃 広野ICに集合 → 福島第二原発(楢葉(ならは)町) → 大熊町

12:00頃 双葉町 → I家(双葉町) → 浪江町 → 請戸(うけど)海岸 

→ 両竹(もろたけ)神社

15:00頃 I家 → 福島第二原発(15:30着) 広野ICにて解散

 

2 目についたこと

 双葉町へ南から入る一時帰宅者のゲートとなっているのが福島第二原発敷地内の駐車場に作られた施設である。奥行き70~80m、高さ5~6m、鉄骨と幌によって作られたトンネルのような形をしたレーンが4つほど建てられている。車両ごとそこに入ると、スタッフが搭乗者の名簿、通行許可証などの書類チェックを行う。スタッフはマスクをしている人はいても、防護服を着ている人はいない。事前に運転免許証などの身分証明書の提示を求められると聞いていたが、チェックされたのは運転手のI君の父だけでであった。因みに、私が実際に署名した書類はこの同行の話を頂いてから一回もなかった。こんなにチェック体制がゆるくていいのだろうか、と疑問に思う。ここで防護服、手袋、放射線量の測定装置、連絡用の無線を受け取る。手袋は綿、ゴム、さらにもう一枚と三重のセットでそれが一枚の袋に入っていた。I君の弟は20歳前後と若いからだろうか、私たちにはなかったマスクが特別に配られていた。何故全員に配らないのだろう。それとこの施設は撮影禁止らしく、いたるところに貼紙がしてあった。

 

 双葉町に至るまでに最初に目についたのは黒いビニール袋に覆われた底面の半径が1mほどの円筒形の物体(フレコンバック)だった。それは国道沿いの枯れ果てた田畑の中に数個の群れにまとめられて、至るところに置かれている。除染によってまとめられた、放射性物質を含む土壌や廃棄物だろうか。またある場所にはこれが大量に集められていて、フォークリフトなどの重機と一般的な体育館ほどの大きさの白い建物が見えた。中間貯蔵施設だったのかもしれない。黒い物体が不気味に見えた。

 国道は思ったよりも普通の車両が通っている。工事車両もいくつか見た。一時帰宅日だからかもしれない。その他、走行中は消防車と警察車両がよく通った。警戒区域の外なので営業をしていた広野町のコンビニエンスストアの駐車場には、兵庫県警のパトカーと車中で食事をとっている警察官が数名いた。遠くからよく来たものだと感心する。

 

 双葉町周辺の町の中で壊れている建物が良く目につく。道路にはみ出して崩れ落ちた家屋が車の走行を邪魔する。信号は黄色で点滅しているところが多い。

 海岸線には何もない。荒れ果てた草むらのなかに、大きく捻じれて潰れたトラック、軽自動車、様々な車両と漁船が点々と転がっている。ゴミをかき集めたできた小山もちらほら見える。電柱は傾き、ガードレールは針金を自由に遊ばせたかのように複雑に捻じ曲げられた形をしていた。不謹慎だがちょっときれいだな、と思って写真にとった。いや、きれいというよりすごいと思った。人の力をゆうに超える自然の力、その集約した力の痕跡。すごいというのは、すさまじいということであり、感動と畏怖が混じり合っていたように思う。

 

 基本的に車から降りることなく移動しながら、町中で様々な人々とすれ違う。そのほとんどが防護服を着ていない。3月11日を翌日に控え、テレビ局の取材班の姿も良く見かけた。やはり防護服は来ていなかった。彼らの多くは北からのルートで来たようだ。南と違ってチェックはもっとゆるいのだろうか。請戸の浜ですれちがったスーツ姿のフジテレビのアナウンサーは、挨拶をした私たちを怪訝な顔つきで見て何も言わずに行ってしまった。原発反対の運動家に見えたのかもしれない。

 避難の際に放逐された家畜動物の姿は見えない。生きている姿も死んでいる姿も。I君の家族も今までの数回に渡る一時帰宅でも確認したことはないと言う。請戸港近くの河口には水鳥が群れていた。汚染された土地でも生物は生きようとする。それは人とて同じことなのだろう。

 

 神社を調査しに裏山に入ったところ線量の積算値がぐんと上がる。私の計器は故障していたようで正確には測れなかったが、一緒に入っていたI君とYは15~20μSvほどたまっていた。この計器も渡された際に首から下げるように言われたのみで、使い方や積算値がどの程度上がると危険なのかなどの目安などの説明が一切なかったので、どうにもしようがなかった。私たちはそうやってデータを集めるラットのようなものか。除染がすすんでいるのは勿論人が入りやすいところのみで、草木が生え放題で防護服も破れてしまうような山の中は放射線量が高い。それは今後どうしたらいいのだろう。

 

 午後から風が強くなり一気に寒くなる。震災当日は雪が降っていたらしい。神社に避難した人々は、神社の壊れた木材を燃やして暖をとったそうだ。

滞在は16時までと決まっているため、無線で15時半頃にゲートへの帰還を促す連絡が入る。使用した防護服は袋にまとめて廃棄、計器類は返却、全員スクリーニングを行う。スクリーニングの機会はコードがついた電話のようで、受話器の部分は懐中電灯のよう。これをかかとに当ててゆく。機械の本体には「内閣府G-MAD19」のラベルが貼ってある。放射線量の積算値を書類に記入して終了となった。

 

3 感じたこと

 正確に言えば感じられなかったこと、それは放射性物質というものの存在である。目に見えず、臭いもなく、人間の体に作用することは確かでありながら、外部被曝と内部被曝の影響の程度とその受容の個人差が大きい物質。人がどれだけ五感を発達させて鋭敏になったところで、感知しようのないもの、それが存在していることが素直に恐ろしい。それは全く人間と相容れない毒物なのだから。多くの毒物は、転じて薬ともなりうる。確かに一部の放射線は医療の現場などにおいて人の治療に役立っていて、自然界には放射性物質が微量ながら静かに放射線を出し続けているのだから、人は放射線とある程度の共存をし、共存を図ってきたと言えるだろう。X線がない医療現場は考えられない。だからこれは程度の問題とも言えるかもしれない。人が越えてはいけない線はやはりある。

 ここでその線がどこにあるのか、ということに視点が集まっては問題の本質はずれていってしまうだろう。大切なのは誰が決めているのか、ということである。科学者、政治家、経済学者、実業家、原発作業員、被曝者、二次・三次被害者、核保有国あるいは非保有国の国民、それを決めるものの視点もまた一つに収束することで、本質は狭量で偏執なものに変化してゆくのである。そして最も怖いところ、それは放射性物質の秘匿性、人の感覚できる範囲から隠れてしまっているという性質から生まれるものであるが、私には関係のない、または影響のない物質だと思わせてしまうところであるように思う。ここで私は過敏になれと言いたいわけではない。心配しすぎることで、放射線の影響とは無関係に不健康になってしまってはまたそれも不幸なことである。

 放射性物質は人が感じにくい物質であり、人体に負の作用を持つものであるということ、これをどのように扱ってゆくのかを決めるのは、原発事故という歴史的事実を体験したこれからの人々全ての肩に乗った問題であるということを、その責任の重さを自覚することが必要である。だからといって一人で重さに押しつぶされるのではなく、全員で背負って一人一人の視点を大切に考えればいい。ただやはりそれは軽いものでもなく、ついつい誰かの意見に従ってしまいたくなるほど面倒な問題であることは間違いないのである。

*双葉町出身のご友人Iさんの一時帰宅に若松紘介さんが同行されたときの証言をご寄稿いただきました。(震災アーカイブ室編集担当)

インタビュー日 2013年3月24日
インタビュー証言者 若松紘介氏
地域 双葉町

詳細情報

対象時期 6か月以上
災害の種類 津波,  原発事故

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タイトル インタビュー日 地域 対象時期
双葉町一時帰宅の同行レポート 2013年3月24日 "双葉町" 6か月以上

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